院長こらむ:看取り

本日、朝、透析患者さんを看取りました。この患者さんは、当院が開院して、最初に血液透析を導入した方で、ユーモアに富んだなかなかの文化人でした。正月・盆には、達筆な書をしたため、その横に、水墨画を添えて持参されました。毎回、透析室、患者更衣室に掲げていました。今も今年の書が貼ってあります。当院が開業して、14年目を迎えていますので、13年間以上を週に3回、血液透析を受けてこられました。享年85歳でした。昨日、回診のとき、突然、親鸞上人・蓮如上人のお話をされ、今、導かれようとしていると言われました。その時は、まだ、全身状態に変化無く、”大丈夫ですよ”と励ましたのですが、それが、お別れの言葉だったようです。常々、”私は、先生の病院の歴史です”と言っておられ、特別の親しみを示しておられた方でした。ご冥福を願いたいと思います。
さて、我々は、自分の死や、大切な人々の死について考えることを忘れて生活するようになっているのではないでしょうか。岸本英夫著「死を見つめる心」の面白い文章を紹介した本(親鸞の生命観:鍋島直樹著)がありましたので、抜粋しておきます。
”近代文化は、人間に死を忘れさせる文化だということができよう。機械には死というものがない。もし、一つの機械に故障が起こって、能率が下がれば、その機械はすぐに取り除かれる。そして、新しい機械に置き換えられる。生産過程の基礎をなすものは、常に高能率を保つ健康なる機械である。その意味で、常に健康で、フル活動していることを常態とする。働く人々も、病気をして、能率が下がれば、その人は、機械と同じように、他の人ととりかえなければならない・・・。このように、健康者だけを構成員として予想している社会では、人間の死の問題が忘れられるのは、むしろ、当然である。自分は機械のように常に健康であるという考え方が、その社会で優位をしめると、人間の死は、すべて他人事として取り扱われる。”
ちょっと、哲学過ぎますが、要は、健康な人は、”死”が必ずあることを忘れて、自分は、いつまでも死なないような気持ちで生きているということです。最近は、病院死が多くなり、家庭での看取りも少なくなっています。子供たちに”死”を意識させた看取りが少なくなっています。”死”に対する、恐れ、慄きもなく、自分の死だけでなく、他人の死に対してもそうですから、このことが、今の世相と関係しているかも知れません。